牧師メッセージ


2025年8月

私を強めてくださる方のお陰で、私にはすべてが可能です

「私を強めてくださる方のお陰で、私にはすべてが可能です。」(フィリピの信徒への手紙 4:13)

 

 

ある大手自動車メーカーが経営改革に乗り出したとき、海外から請われて派遣されてきた同社のトップが営業担当にこんなことを言ったのだそうです。「なぜ我が社の車が売れないのか競合会社に行って聞いてきなさい」。

当然、営業担当はこう応えました。「競合会社に行っても教えてくれるはずがありません」。至極当然、誰もがそう思う常識的な回答です。

するとトップは、「実際に聞きに行って断られたのですか」と逆に切り返したといいます。

 

テレビドラマの中の話のようですが、実際にこれを体験した競合会社の経営企画部長がいます。彼のもとに件の自動車メーカーの改革チームの一行が教えを請いに訪れました。経営企画部長は「公式には答えられない」と一度は断りますが、「それならば非公式に教えてください」と改革チームの一行は食い下がったのです。結局「非公式に」教えてくれたそうです。

実はこういうケースは目新しいことではなく、他にも別の自動車メーカーやビール会社などが競合会社に教えを請い行き、結果営業成績が好転した実例がいくつもあるそうです。

 

このエピソードを聞いて、「為せばなる、為さねばならぬ何事も」をあらためて思わされたことは言うまでもありません。そして私たちの日常においても同様に、頭ではわかっていながら、自らの判断を絶対視するあまり、「為さぬ」ままに多くの可能性を閉ざしてしまっていることがあるのではないだろうかとも思わされます。「やっても無駄」と決めつけて取り組まなかったこと、「どうせ言っても誰も聞いてはくれないから」と発言しなかったこと、「誰かがやるだろう」と放置したこと……細かなことまで数えていくと結構な数になるのではないでしょうか。

責任をもって自らが判断を下す、決断することは悪いことではないでしょう。そういう主体性は大事だとも思います。しかし自分の判断―というよりも思い込み―を絶対視してしまうことは、狭い世界に閉じこもり、さまざまな可能性を自らの手で断つことにつながりかねません。

 

「私にはすべてが可能」とフィリピ書は語ります。力があろうがなかろうが、地位があろうがなかろうが、財産があろうがなかろうが、かけがえのない一人ひとりを大切にしてくださる存在を拠り所にするなら、その時々に私にできることを差し出せばいいのだからと。それは、だからどんな状況にあっても私の一歩に無駄はなく、むしろ自ら思い込んでいるマイナス要因を理由に身動きがとれなくなってしまうことこそが、問題だということではないでしょうか。

競合会社に教えを請うことが恥ずかしいのではありません。その恥ずかしさによって踞ってしまうことこそが恥ずかしいのであり、人生を歩む上で克服しなければならない課題だといえるのではないでしょうか。

 

 

牧師 司祭 八 木  正 言


2025年7月

私の神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスにあって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます

「私の神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスにあって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」(フィリピの信徒への手紙 4:19)

 

 

 高層建築が増える昨今、エレベーターが来なくてイライラした経験はないでしょうか。 

 

かつて某電機メーカーが、エレベーターを待っている人のイライラ度を調べたことがあるそうです。それによると、待ったと感じる時間と実際の時間が等しいのはほぼ1分まで、それを超えると、人は実際より長く待ったと感じたといいます。たとえば仮りに2分待てば、4分近く待ったと思ってしまうのが現代人、イライラ度も1分を超えると急激に増すのだそうです。

 

ですから、エレベーターを開発する業界では、待ち時間の限界は1分とされていて、各社の目標は今、「平均20秒以内で乗れること」なのだと言います。

 

そのための技術革新は著しく、エレベーターを待っている人全員を待たせないために、「箱」の動きをパターン化してコントロールしているといいます。たとえば、(1)出勤時に皆が上に行く(2)昼食時に皆が食堂階に行く(3)退社時に皆が下に行く(4)通常時、といった具合にいくつかのパターンを想定し、エレベーター自身がどのパターンを使うかを瞬時に判断しているそうです。しかしスゴイのはこうした技術ばかりではなく、イライラを解消するために、待つ側の人間心理も「巧みに」利用している点です。

 

 

最近のビルのエレベーター・ホールでは、今エレベーターの「箱」がどの階にいるのかがわからないようになっていることにお気づきでしょうか。言われてみると確かにそうで、旧式のエレベーターは扉の上に階数表示があり、今「箱」がどの階にいるのかを表示していました。しかし最近この表示は消え、昇り(△)や降り(▽)の表示のみです。前述の通り、複雑なパターンで動いているエレベーターは、すべての階の待ち人を待たせない「公平運転」を実践するために、時には待ち人がいても、その人の最寄り階にある「箱」がその階を素通りすることもあるそうで、そんな扉の裏側の「事情」を知ったら、誰もが怒り出しかねないので階数表示をやめたといいます。

 

これらは、涙ぐましいまでのメーカーの努力・親切心としてだけで終わらせていい話でしょうか。そこに、待つことができなくなってる、絶えず時間に追われている、思い通りにならないことに向き合えない、などなど現代人の様々な課題を見て取ることができるというのは大袈裟に過ぎるでしょうか。人は、待つ時間があることでより深く思いめぐらすことができますし、思い通りにならない現実との共存共生からより広い視野を学ぶことができると考えるなら、これは真摯に受けとめねばならない現実であるようにも思います。

 

 

たとえ私の思い通りではなくても、私たちに必要なものはすべて満たされている、と感じとる心をもっていたい、そう思います。

 

 

 

牧師 司祭 八 木  正 言


2025年6月

人が独りでいるのは良くない。彼にふさわしい助け手を造ろう。

「人が独りでいるのは良くない。彼にふさわしい助け手を造ろう。」(創世記 2:18b)

 

 

 

日々の生活の中において、「私」を支えているものは何でしょうか?人それぞれにいろいろあるでしょうが、そのうちの一つは「安心」だと思います。

緊張を強いられるさまざまな場面、たとえば人前で何らかのプレゼンテーションを行うとき、がんばって準備したんだから大丈夫、という「安心」があれば、落ち着いて責任を果たせます。恋人の誕生日、アルバイトで貯めたお金を銀行から引き出してきたという「安心」があれば、デートを楽しむことに一心になれるのかも知れません。

 

いささか大袈裟に過ぎる表現かも知れませんが、私たちの人生の歩みは、このようなさまざまな「安心」を手に入れるための歩みでもあると言えるのかも知れません。学歴を積むことも、安定した会社に就職することも、言ってみればそれによって得られる「安心」を獲得するため、そう言うのは言い過ぎでしょうか。

 

「安心」を獲得するための努力を悪く言うつもりはありません。そこでの努力は必ずや結実するでしょうし、努力する過程で与えられる出会いが思わぬ幸運をもたらしくれることもあるでしょう。しかし「安心」には、どんなにがんばっても、そして自らに力があったとしても、決して独りでは獲得することのできない種類の「安心」もあります。すなわち他者によって与えられる「安心」がそれです。

辛く悲しい気持ちで心が塞ぐとき、たとえ気の利いた言葉をかけてはくれなくても、大切な“あの人”が側にいてくれるだけで「安心」するということがあります。母親が側にいるだけで子どもは無心に遊ぶことができます。こうした「安心」は自分の努力だけで得られるものではありません。

 

 

人生の旅路には、前者と後者、どちらの「安心」も必要でしょう。しかしいつの頃からか私たちは、後者の「安心」を心に留めることを怠ってきてしまったのではないだろうか、そう思います。いや友人は多いし、自分を支えてくれる先輩や知り合いもたくさんいる、と言われるかも知れません。しかしそうした他者との関係が、実はどれだけの利益をもたらしてくれる存在かとか、どれだけ幸せを運んできてくれる存在かによって保たれていることがあったりします。だから、利益や幸運がもたらされなくなったとき、「使えないヤツだ」などと容易にその相手との関係を切ったり、裏切られた、などと簡単に言ってしまったりもします。

 

具体的な一人ひとりの存在によって得られる「安心」が確かにあります。だから人は生きていけるのです。支え合うことも励まし合うこともできるでしょう、アダムにとってのエバ、エバにとってのアダムが、相互に「助ける者」であったように。この真実にもっと心と時間を割いていきたいものだと思います。

 

 

 

牧師 司祭 八 木  正 言


2025年5月

互いに重荷を担いなさい

「互いに重荷を担いなさい。そうすれば、キリストの律法を全うすることになります。何者でもないのに、自分を何者かであると思う人がいるなら、その人は自らを欺いているのです。」(ガラテヤの信徒への手紙 6:2-3)

 

 

「発想の転換」という言葉があります。それはたとえば、課題を目の前にしてもあきらめず、プラス思考で対処、課題を克服しようとする際などに用いられます。「ここは一つ発想を転換して、このマイナスをプラスに変えていこう」などという具合に。しかしこれが言うは安し行うは難し、いつも上手くいくとは限りません。災い転じて福となることは結果として与えられる恵みではあっても、これを自らの手で実践、具現化するのは簡単なことではないでしょう。それゆえ、発想を転換するための発想の転換が必要だ、などと考えてしまうこともあります。

 

思うに、「発想の転換」は、「発想の転換」をしなければ、という思いから解放されるときに始まるような気がします。したがって、どんな難局に相対しても「発想の転換」によって乗り越えられる自分になろう、などという力みは捨てた方がいいと思うのですう。いや捨てる、というのが過言なら、私はなかなか発想を転換させて生きていくことができない者だ、ということを受容する、と言い換えられるでしょうか。「委ねる」という価値観を持つ、そんなふうにも別言できるのかも知れません。

もちろん、他者に対して、依存したり甘えたりするのではなく自らを「委ねる」、明け渡していくことも容易ではないでしょう。それは直面する課題克服を、自らの力ではどうにもならないこととあきらめる=明らかに認める行為であり、ある意味敗北感を伴うものだからです。神に信頼して身を委ねる、などと牧師が語ったときに、「宗教や信仰に身を委ねるのは、力のない弱い者のすること」などという反応があるのもその所以かもしれません。しかし、開き直るワケではありませんが、そんな言葉を聞くとこう言いたくもなります。

 

 

強いって何ですか?

 

何事にも動ぜず、誰からも一目置かれる私を確立することですか?

 

だとしたら私は弱いままでいい、そう思います。自分の弱さをしっかりと認めながら、だからこそ素直に誰かに向かって助けてくださいと言える自分でありたいと。そんなところから他者との関係が結ばれ、真の友情や信頼、そして愛が生じてくるのでは、そう思うからです。

 

そして、そこで生じる友情や信頼、そして愛が、「発想の転換」を促すビタミン剤になるのだと思うのだが如何でしょうか。

 

 

牧師 司祭 八 木  正 言


2025年4月

明日のことを思い煩うな

「だから、明日のことを思い煩ってはならない。明日のことは明日自らが思い煩う。」(マタイによる福音書 6:34)

 

「気に入らぬこともあろうに柳かな」という言葉があります。柳は風が吹くと枝をそよがせるだけで、傷ついたり折れたりしません。弱そうに見えますが実は強く、そのしなやかさから相手に逆らわないで身を保つことのたとえですが、そこには健全な楽観主義ともいえるような趣があるように思います。そして、洋の東西を問わず、この健全な楽観主義を思わせる言葉やことわざは思いの外あることを思わされます。

 

明日は今日とは違った風が吹く、世の中何とかなるもので、先を思い煩うことなく今を十分に楽しめという「明日は明日の風が吹く」はよく知られるところでしょうし、同じ意味の「明日のことは明日案じよ」もあります。スペイン語の「ケセラセラセラ」は、明日は明日の神が守るという意味ですし、ドイツ語にも「にもかかわらず笑う」という言葉があるのだそうです。

 

どうも人の生には「健全な楽観主義」、「プラス思考」が必要であることを、先人たちは経験を通して受けとめてきたようです。

 

もちろん、計画を立てて準備することを悪く言うつもりはありませんし、自らの努力を放棄するところの他人任せもよくないでしょう。しかし私自身の拙い経験を振り返ってみても、確かに、腹を立てたときは自分の準備(努力)が報われなかったときだったり、自暴自棄になったときは、自ら善かれと思ってしたことが他者には受け入れられなかったりしたときであったと、今さらながら気づかされます。

 

人間はパーフェクトではありません。人が人である以上、誰もが欠けのある弱い存在です。おそらく仕事にしろ、人間関係にしろ、自らの思いのままにはならないことの方が圧倒的に多いはずです。にもかかわらず「明日のことを思い煩う」のは、気づかぬうちに、自分の力次第で「世界」は如何様にも「回す」ことができる、という高慢さが心に巣くっているからかも知れません。

 

 

「明日のことを思い煩」わないでいられるときは、自らを絶対化しない謙虚な姿勢でいるときなのかも知れません。

 

 

牧師 司祭 八 木  正 言


2025年3月

狭い門から入りなさい。

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道も広い。そして、そこから入る者は多い。命に通じる門は狭く、その道も細い。そして、それを見いだす者は少ない。」(マタイによる福音書 7:13-14)

 

 

かつて新聞記事で読んだ話です。

 

最近、各航空会社の頭を悩ませているのは航空燃料の値上がりなのだそうです。そこで某大手航空会社は、一機あたり500㎏を目標に燃料のダイエット中なんだとか。そしてそこで着目されたのが機内食の食器です。

 

スプーンとフォークの厚さを0.2㎜薄くし、それによって一本あたり約2グラムの減量をします。ファーストクラスやビジネスクラスでは器の質感を味わってもらうために磁器を用いているそうですが(乗ったことがないからわかりません!)、これについても普通のものより2、3割軽い軽量磁器を導入したのだそうです。

 

なんとも涙ぐましい努力のように思えますが、その「結果」を聴くと涙ぐましい、などとは言えなくなります。こうしたグラム単位の取り組みで1便あたり年間1,000万円、グループ会社全体で約7億円の燃料費節約になるというのです!

 

大手航空会社の年間の支出規模は莫大なものでしょうから、年間7億円はもしかしたらスズメの涙なのかも知れません。しかし、グラム単位の取り組みが年間7億円の結果を生み出す事実は、やはり見過ごせない事実に違いありません。

 

 

たとえば、ダイエットから英語力の学習、掃除用品に至るまで、巷では「即効性」がもてはやされています。それは確かに魅力であり、テレビコマーシャルを見て通販会社に電話注文しよう!と思ったことがある人も少なくないのでないでしょうか。しかし、そんな時代にあっても、ますます「グラム単位の努力が疎かになってはならない」のでは…そう思います。「千里の道も一歩から」、「7億円の節約も0.2㎜から」、忘れずにいたい教訓です。

 

 

牧師 司祭 八 木  正 言